西大寺さん(2)

aniyan
2010年3月9日

藤原鎌足の次男不比等は絶対的な権力で孫の聖武天皇が即位する舞台とする目的で平城京を造営し、 ここに藤原氏は栄華を極めます。

 

しかし、当の聖武天皇は「鎮護国家」を掲げ、大仏を造営するなど、 仏教を手厚く擁護し、その後地方での内乱が多発する不安の中、 さらに 僧侶や仏教徒の政治への発言力が大きくなっていきます。 これを疎ましく感じた藤原氏は平城の都を捨てて、京都への遷都を推進します。 氏神の春日四神は伴っていくも、これまでの遷都に併せて移転を繰り返してきた奈良の大寺は 京都への移転は許されませんでした。 (春日大社の御霊は長岡京・大原野神社、平安京・吉田神社へ移っていく)

 

西大寺さんは765年聖武天皇の皇女であった孝謙天皇(称徳天皇)が内乱が鎮静し、
国家の安寧を願って、おそらくは寵愛する僧・道鏡の力添えもあって7尺の金銅四天王の造立を発願されたのがはじまりで、
まもなく110もの堂塔が立ち並ぶ、平城京において最大規模を誇るまでになりました。

 

その規模は現在の近鉄のターミナル「大和西大寺駅」、近鉄百貨店、
鉄路の南北の「西大寺」の地名をもつ区域ほぼすべてが入る規模で、弊社のある位置も旧境内の真っ只中でありました。

 

現在弊社の周辺では遷都1300年祭の平城宮跡会場開催に向けた道路整備が忙しく行われていますが、
その工事中にもいくつもの当時がしのばれる遺跡が掘り出されています。

 

平城京最大規模の西大寺さんも建立まもなく京都の都が移り、保護の手も薄くなり、
平安時代以降は度重なる火災や大嵐で大きく荒廃していきます。

ページトップへ